Barbara Florence Weirは、1940年、アリス・スプリングスの北東に位置するユトーピアの旧デリーダウンズステーションで生まれました。母はユトーピアとオーストラリアで著名なアーティストである故Minnie Pwerle、父はアイリッシュステーションのオーナーであったJack Weirでした。
Barbaraは混血であったため、2歳のときから福祉パトロールから逃れるように隠され、叔母でありアボリジニの女性アーティストとして最も有名な故Emily Kame Kngwarreyeに育てられることになります。Barbaraは9歳のとき、ユトーピア・ステーション(現在のユトーピア・ホームステッド)で水汲みをしているときに、福祉機関によって家族から引き離され連れ去られました。彼女は「盗まれた世代(Stolen generation)」と呼ばれる人々の一人です。
Barbaraはバンガロー(現在の電信局)に連れて行かれ、身なりを整えた後、アリス・スプリングスのセント・メリーズ・ホームに連れて行かれます。その後、最初はビクトリア州、次にダーウィンのレシービング・ホーム、イプスウィッチのグッド・シェパード・ホームとオーストラリア各地の児童養護施設を移動し、最終的にダーウィンに戻ってくることになります。この間、彼女は英語を話すことを強いられ母国語を忘れて、母親は死んだと聞かされていました。家族との連絡は途絶えていましたが、彼女は自分が生きていることの証と自分の伝統を取り戻すために家族のもとに戻ることを決意します。
1960年代後半、Barbaraは幸運にも家族を見つけることができ、3人の子供を連れて生まれ故郷のユトーピアに戻ってきました。この再会は幸せなものでしたがBarbaraがユトーピアの言語を話せなかったために、家族とコミュニケーションをとることができないという問題が起きます。それから20年あまり、さらに3人の子供を産みながら、Anmatyerre 語とAlyawarre語の両方を一からマスターした数少ない人の一人となります。
故郷に戻り、Emily Kame Kngwarreye(当時、有名なバティック・アーティストだった)とのユニークな関係の中で、Barbaraは絵画に興味を持ち、その才能を発揮していきます。1994年、Barbaraと他のアボリジニの女性たちは、バティックの技術を学ぶためにインドネシアを訪れました。ユトーピアの女性たちは美しいバティックで知られており、1974年にアボリジニのコミュニティが自分たちのユトーピア地域を買い戻すことに貢献しました。
インドネシアから帰国したBarbaraは、自分のクリエイティブなスタイルを確立するためのアイデアをたくさん持っていました。1996年、Barbaraの作品をいくつか購入したギャラリーのオーナーに依頼されてスイスとパリを訪れました。このコレクションは完売となり、Barbaraは尊敬されるアーティストとしての地位を確立していくことになります。
1996年、Emily Kame Kngwarreyeの死後、Barbaraはアーティストとしての技術を高めることに専念し、今では有名になったGrass Seedペインティングをはじめとする現代的なスタイルの作品を制作して、すぐにコレクターの注目を集めていきます。ユトーピアで見られる小さな草であるLyaw、Munyeroo、Pigweedからインスピレーションを得たBarbaraのGrass Seedペインティングは、小さなブラシストロークが重なり合い、織り成すことで揺れを表現しています。これはBarbara独自のエネルギッシュなスタイルとなっています。
My Mother’s Countryは、Barbaraのもうひとつの有名なスタイルで、彼女のアーティストとしてのスキルを証明する作品シリーズです。Grass Seedとは全く異なり、これらの作品はドットワークが複雑に組み合わされており、様々な背景の形が故郷の様々な側面を表現しています。この背景は、メインテーマに応じて非常に繊細なものから劇的なものまでありますが、このシリーズはBarbaraの故郷に対する知識と敬意を表現しています。Barbaraの限定的なカントリーサイド・ペインティングは、色やドットワークの微妙な違いによってテーマを描いています。
2002年、Barbaraはオーストラリアの中央砂漠に戻ってきました。新しいデザインを試したり、過去の名作を再現したりすることに熱心なBarbaraは、あらゆるリソースを手に入れることができ、その結果、彼女の創造性が完全に発揮され見事な作品に発展することができるのです。80歳になった今でも、Barbaraは絵画の技術を磨き続け常に新しいデザインや絵画の方法に挑戦しています。
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